2012年10月8日月曜日

10月6日「場踊りat兵庫県立美術館」の感想

年に一度、神戸での場踊りを見ることは何より楽しみです。
日常の場が場踊りの場になると、そこは一変、不可思議な世界になります。

神戸在住ではないので、「日常生活の場」とは言えませんが、生まれ育った場所が海に近い山間の里だったため少しだけ電車に乗れば訪れることができる神戸は気持ちが安らぐ場所です。

泯さんの場踊りを見ることは、自分自身はこれでOKなのかを身体で感じとることで確認する大切な時間でもあります。
大人になって、日々の暮らしに身を置いて、いつの間にか当たり前になっている諸々を頭で考えるのではなく、身体と向き合って感じる。(文章にすると、なんだかいやな感じで自嘲したくなりますが。)
大切なものを無くしていないか?見失っていないか?
頭は嘘つきでも身体は正直だから、それを身体に教えてもらう感じです。
だから、場踊りを見る前はいつも身体で感じることが出来なくなっていたらどうしようと不安な気持ちもあります。

初めて泯さんの場踊りを見たときの衝撃は今でも鮮明な記憶です。
言葉ばかりが先行することは、なんて頭でっかちで不自由なことだろうと頭をがつんと、ノックアウトされた感じでした。
それと同時にこの上なく、うれしかった。
場踊りの間中、私の中には言葉が存在しなかった!(頭で考えるということが一切なかった。)
うそみたいだけど、本当のこと。
言葉なしで感じた!身体で感じとることが出来た!
しかも今まで経験したことがない感覚と感動を。
これ以上の喜びはありません。

今回は最初と最後に音楽が流れていました。
心地よいリズムと旋律の中、異境の人がここを異境と思わずに音楽に身をまかせて踊っているように感じました。
踊っている間に少しずつ、踊る人の心の中に不安が芽生えます。
目に見える景色は変わらないけれど、何か違わないか?
ここは自分のいた場所、いるべき場所ではないのではないか?
音楽が止まりました。
着ているものを脱いでみます。確かめるように。自分が何者なのか。
赤子なのか、子供なのか。
重力に挑戦するように高く飛び、上へとつま先で踊るものなのか。
身体をより低く、ゆっくり地を感じながら踊るものなのか。
すでに老成したものなのか。まだまだ未熟ものなのか。
そうか、自分は彼方太古の海のむこうから、わくわくしながら船を漕ぎここにたどり着いた異邦人だったのだ。気づきの瞬間、踊る人のうしろにふわふわと上がっていたシャボン玉がはじけました。{シャボン玉の偶然はまぼろしかと思いましたが、下の方で子供たちが遊んでいたからでした。) 夢の中にすべてがあるような感覚。夢と現が交錯して何が本当なのか、見えるものと見えないものが逆転する世界へ行ってしまった感覚。再び、音楽が流れ服を着て踊る人にはもう不安な気持ちや迷いは一切なくなっていました。いたって自然の流れの中で、今回はシャボン玉の刹那の偶然を目の当たりにして、泯さんは究極には自然を踊ってしまう(自然と溶け合って踊る)人なんだと思いました。今までの場踊りでも、絶妙なタイミングで鐘が鳴ったり、鳥が飛んだり動物の鳴き声がしたり、近寄ってきたりしました。それは果たして「人」に出来ることなのか?と問うてみたくなるほどです。場踊りの感じ方は十人十色だと思います。正解も不正解もない、良い悪いもない自由な感想をその場に一緒に集った人たちといろいろ語らう時間も楽しいです。初めての人も、たくさん見ている
人も、常に新鮮な感動がそこにあると思います。
だから、これからもまた場踊りを見に行きます。
そしていつか、向こうの方に何やら踊っている人が見えたから近づいて行ったら、泯さんだったんだ
という日を楽しみにしています。
2012年10月7日        鈴木圭美